2024年5月9日木曜日

ようやく今日、かかりつけの医院の長いGW休みが終わって、喘息の薬をもらいに行く。なんだかねえ~。

世の中には喘息のことをよく分かっていない医者もけっこういて、不要な検査やあさっての方向の薬を処方されることも多かったので、他の医院を探すのも、大変で。症状が出ていない時はケロケロっとしているので、厄介だわ。

喘息だけなら、いくら咳をしても自分が苦しいだけで他の人には感染しないが、鼻水やら何やらがあるうちは、喘息以外の何かが残っているのだろうから、自宅でおとなしくしているほうが無難。

日本中国学会の「便り」&会費振込用紙が届いた。理事長の巻頭の挨拶文には、がっかり。中国学もデジタル化が進んでいるけど、図書室を歩き回って本のページをめくる「体を使っての文献調査」も大事、という主旨だけど、漢籍コーナーの助手さんが本の場所を教えてくれなかったとか、語句の出典調べが大変だったとか、「なぜそれをさせられているのか」理解せずに、ただ「時間を費やして」いたのだろうか? 

こういう人がデジタル化推進しちゃうと、「データーベースによって語句の検索は簡単になりましたが、その後さらに紙の本を手に取って確認する作業はおこたらないようにしたい」と言いつつ、「なぜ?」が抜け落ちてしまう。

今から思えば、たった一つの語句のために書物のページを一枚一枚めくっていったことも、決して時間の無駄であったとは思いません。漢籍コーナーに入り浸って、線装の本の手触りを確かめながら、一枚一枚ページをめくり続けていくと、次第に本そのものへの愛着がわいてきて、一種の身体感覚が身につきます。もちろん、漢籍コーナーの書棚の間を歩きまわることで、思いがけぬ本との出会いもありました。

「一種の身体感覚」を、もうちょっと掘り下げてみたら、いいと思う。漢籍コーナーは、どういう蔵書構成になっているのか。どういう本が置いてあって、どういう本は置いていないのか。どういう分類配列で置いてあるのか。そこに漢籍の世界の秩序が反映されているはず。「歩きまわる」ことで、それを体感させるために、助手さんは本の場所を教えないのだと思うけど。

一つの語句を探すために、本のページを最初からめくっていく。どういう作品がどういう基準で集められ、どういう分類配列で編纂されているのか。版本によって、どういう違いがあり、どれがどういう理由で最善とされているのか。そもそも誰の語句をよく踏まえているのか、誰の作品に影響を受けているのか、それともいないのか、そこから「出典調べ」が始まるわけだけど。

明清の文人が蘇軾の作品を版本で読むのと、杜甫が手書き巻物の『文選』を読むのと、「一種の身体感覚」は違っていた、と思うし。

『佩文韻府』を、先生方の時代には「韻字で引いた」、自分の時代は「ありがたいことに四角号碼検字法による索引があった」というのも、「え、そこは韻字で引けるようにトレーニングしようよ?」と思った。索引をありがたがっているのに、デジタル化推進には及び腰? 説得力ないし~。

2 件のコメント:

  1. おはよーございますにゃあ♪
    え゛っ!
    GWの狭間に薬もらいに行ったと思っていたら、まだ休みだった???@@

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  2. ええ、4月28日から5月8日まで、ずっとお休みでした。

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