さぶさぶ。昨日がよく晴れて室内は暖かだったので、10℃スタートが寒く感じる。しばらく三寒四温ぢゃ。
『詩経』のお勉強。加納喜光せんせの『詩経・Ⅰ 恋愛詩と動植物のシンボリズム』『詩経・Ⅱ 古代歌謡における愛の表現技法』や、小南一郎せんせの『『詩経』 歌の原始』を読み直す。孔子以前、儒教集団以前に「詩三百」は成立していた、儒教的教訓的解釈から脱却して、詩そのものを解釈しよう、という点は両先生とも同じ。
小南先生は、現行のテキストの配列と違って、頌⇒雅⇒風の順に成立したのではないか、という。詩そのものの作られた順はともかく、祭祀とその後の宴会で「詩」が音楽や舞踏をともなって披露されたとすると、『詩(経)』は大事なものほど後ろに置く配列で編纂された、って感じ?
「詩」(西周から東周)と「詩三百」(孔子の頃)と『詩(毛詩)』(後漢から唐代)と『詩経』(宋代以降)は、成立した年代が数百年単位で隔たっている。それぞれの時代の社会がどんな感じだったのか、なかなかピンと来ませんね。「国風」が面白いと感じるのは、叙事的な「雅」「頌」がピンとこない、ってのもあると思う。
私としては、祭祀の儀式の場で披露されたというけど、なんで儀式次第みたいなことまで書いてあるのかな、が疑問。司馬相如の「封禅文」が、前半は散文であれこれ書いてあって、後半は韻文で同じことを言っていて、これに似た形式の作品が六朝時代の人の詩にもあった。序が長々とあって、同じことを詩にした、というのが。
セミナーで『史記』「始皇帝本紀」の途中まで読んだが、始皇帝が天下統一を宣言したあと、中国全土を巡行してあちこちに石碑を立てるが、その碑文の文句が『史記』に引用されている。全国統一した理由と経緯を「3句ごとに韻を踏む」とか「2句ごとに韻を踏む」形で、石に刻して立てていく。「ここまでオレ様の領土だぜ」って見せびらかす感じで。そういう韻文は、あの手この手で始皇帝の偉業を讃えるもので、内容的には千篇一律、でも表現は凝りに凝っている。「というわけで石に刻して天下に示すのです」まで書いてあったり。
似た雰囲気を感じる。祭祀や宴会の場で披露された「詩」そのものだけではなく、「詩」が披露された場面を記録した台本的なもの、備忘録的なものが、雑じっている感じ。韻文の部分を書きとめたのが『詩』で、散文の部分は『書』とかに残っている?
うすぼんやりと妄想しながら、『詩経』と『楚辞』は原文の表現にこだわって、まだまだ勉強は続く。しかし同時に、そろそろ『楽府詩集』にも手を伸ばしたい。これまた「楽府」と『楽府詩集』は違うのだ。私が関心あるのは『楽府詩集』のほうだが、研究書は少ない。「楽府」のほうは、いくつかあるけど。